ヴァーチャルリアリティの世界に肉体的「痛み」はない。それは「現実の感覚がなくなる」、「他人の痛みを理解できない」と、教育的側面で批判の対象となることがある。その論理が正しいか否かは別として、「他人の痛みを理解する」ということについて少し考えてみたい。
率直に言って、そんなことは不可能である。自分が自分である以上は、他人の知覚を経験することができようはずもない。
しかし、「自分が自分でなくなる」、あるいは「仮の自分という他人になる」という体験があれば、他人の痛みは多少なりは感じ取れるようになるのではないか。
そして考えてもらいたいのは「自分が他人になる」という体験は、ネットワーク上において顕著だということだ。
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以上を基本的コンセプトとし、更にViZiMoの機能とを勘案して考えると、
1.人型のキャラクターを利用。それを肉体的に傷つかせる。
(物に傷つけられるのでも、別のキャラクターに傷つけられてもよい)
2.視点変更により、傷つけられる瞬間を仮想体験する。
(傷つける側と傷つけられる側の視点を体験。また一人称視点を利用して臨場感を出す)
といった方法での実現が可能ではないか。ユーザーの操作を離れてキャラクターが勝手に動いていくとよい(イベントの設定などで可能か?)。
問題として、キャラクターを肉体的に(というのも実際には妙な言い方であるが)傷つけるのは本来的な利用趣旨に反していないかということ。あるいは倫理的なコードに。
(ViZiMoでは「兵器」が素材に用意されているが、決して陰惨・グロテスクではないところが切り口になるか?)
また、あまりに直接的である。目新しさや、イメージを喚起させる、これを契機に深く考えさせるということはあまり望めないかもしれない。
理屈はこの程度にして、現時点でのスクリーンショットを以下に掲載しておく。
全景

ズーム

それぞれの視点
