2008年7月7日月曜日

課題・合同ワークショップ終了報告レポート

二、三週間に渡るデジタルハリウッド大学との合同ワークショップが終了。


(講評を聞いて)
色々と言われたわけだが、すべてには対応しきれないので特に気になったものについて少しばかり。


・どういう環境で生きてきたらこれが自己成長という発想になるのか(お台場立体映像)

前後関係もなくテキストだけで見ると嫌な感じにしかないが、真摯に受け止めなければならないことだと思った。
自分たちの考えが真っ向から否定された、というよりは伝わらなかった。

自分たちはアート・デザイン系大学の学生の思考を、人間皆共通の思考のように思ってはいないか。他班がつっこまれていたところでもあるが、一般の人とその手の学生の思考は必ずしも一致しない(絵を描こうと一般の人は思わない、というコメント)。むしろ乖離している気さえする。
自分の得意分野は大いにプレゼンに活用すべきだが、のめり込むとどんどん内に向いてしまうように思えた。
他の場面で言及のあった「主観と客観の行き来」が必要なのだと改めて思わされるコメントであった。
特に、お台場地域住民とか子どもとか、自分がそうでない立場に絡んだ提案をする際には非常に重要になってくるところだろう。


・ファンタジーならファンタジーで徹底(現在における実現性ほぼ皆無の一連の提案)

最初に「20XX年」的な近未来設定にしておけば混乱が生じなかっただろうとのこと。まったくそのとおり、というよりは違う感情。
プレゼンでは「現在の技術でいえば~」的なことも言っているし、『まちがいさがし展』は現在での実現性を高める意味での提案でもあるので、自分たちとしては意識せずとも現在での実現を想定していたのだ(お台場立体映像は除く/今にして考えれば非常に無謀、無計画な話である)。
といって、現在の技術で行うことは非常に難しい「ファンタジー」であるということを突き付けられた以上、方向性は変えなければならない。そういう観点では非常に納得のいくコメントだった。

講評会終了後の飲みの席で講評委員の先生方と話していて、『まちがいさがし展』は今回の提案とは別の視点からも掘り下げられるテーマと知る(「評価される」とまではいかない)。時代劇での史実と違うところをつっこむとか、歴史的裏付けや科学的裏付けでのまちがいさがしをする、というような。


(これらから考えたこととしての、提案の発展形)
ファンタジーならファンタジー。ファンタジーという言葉はどうもしっくりこないので「虚構」とする。
虚構で実現できる提案ならばと逆手に取り、完全な虚構として展開をする。虚構をテーマにする虚構として。

・お台場を舞台に繰り広げられるメタフィクションSF小説

今回の提案を行うにあたり少し調べたことに、お台場を舞台としたドラマやアニメーションがある。『踊る大捜査線』など。そこにあるTV局の放映する番組ということもあるのだが、お台場という場所は物語の舞台としてふさわしいのではないか。小説では、鈴木光司の『仄暗い水の底から』。その一篇では台場が出てきている。
小説という切り口になるのは、あまりアート・デザイン的にヴィジュアルヴィジュアルしたくないため。いつも思うことだけれど、私たちは文章で考えを伝える・伝えられることに不慣れではないか。デザイン提案を伝えるのは結局文章とことばだと思うので、そういう能力をつけるという意味でも必要なことかと思う。というのは今回、自班の映像中のキャプションが「まちがい」でなく「まちがえ」になっていることを指摘されたことにもよる。

というわけで「小説」としてみたわけなのだが、内容が問題である。
今回は対象とした館が科学系であることもあり、SFとする。

***
時にAD2100年
仮想世界と実世界の間の乖離をめぐり、壮大な相互補完プロジェクトが展開される。その中心地はお台場。
仮想世界に現れた歪みを探し修正していく作業の過程から、実世界に歪みが生じ、それらは実質的区別がなくなっていく。
実×仮想の混合空間は更なる歪みを生みだし、現実を侵食する。膨張していく歪み。
膨張した歪みは、偶然その場に居合わせた一人の男をその渦中へと巻き込む。巻き込まれた男はどうなったのか。

時にAD2008年
お台場に、一人の浮浪者が発見された。

***

……的なもの。本当に適当に思いつくまま走り書きといった感じなので、非常に荒削り提案。しかも館の話は直接的には関わってこない。内容如何によっては関わらせることは可能だろうが。

リサーチとして、先例となる小説の精読が必要。似たようなテーマのSFなどいくらでもありそうである。また、筒井康隆のメタフィクション作品は非常に参考になるところ。
また、お台場を舞台にした先例作品(小説に限らず)の鑑賞も必要だろう。

あと『O―diver』とか、思いつきでどうしようもなくさむい題をつけてみたり。なんというかもうほとんど個人的な趣味の領域に入ってきているのでこのあたりで。



(今回の反省点)
自班のプレゼンテーションはいかんせん不完全燃焼感が残る。テーマを完全にひとつに絞り込めば15分でもなんとかなったかもしれないが、今回はチーム全体としての提案ということを意識。結果としては15分に圧縮するのが難しい状況ではあったが、初の(他校を含む)グループワークの成果としては上々の提案が作れたのではないか。
ただしそれがうまく伝わったかと言えば、そうではない。まず自分が落ち着かなさすぎ。これは本当に問題。議論の時もこうだったのだろうかと思うと、班員の皆さんには申し訳ないとしか言いようがない。前段落までは結構肯定的に捉えてきたが、もしかしたら何も見えていないだけなのかもしれない。そういう視野の狭さがグループを最終的に悪い方向に持って行ってしまったのか。(公開しては読み直し文章を校正、としているうちに考えたこととして)

ただ、方法論としては独自性があったのではないか。企画展の提案をする、模型を作るなど、プレゼンをするということで言えば悪くはなかったと思う。実験精神。(結局は肯定する、という姿勢は改めるべきだろうかと文章を読み直し思う)

とにかく、今後に活かしていくべきはグループワークの感覚。一人でやるのとでは完成が全然違うという感覚、他者を知ることで改めて自分を知るという感覚。これはアート・デザインといったことでなくとも重要な感覚ではないか。(読み直してみると、単なる独りよがりのようにも思えてくるが……)

2 件のコメント:

HIdenori Watanave さんのコメント...

たいへんお疲れさまでした。

まず概念的なはなしから。「アート&デザインを学ぶ学生の感覚」と「一般人の感覚」の乖離について、世に居るあまたの"クリエイター"たちが一般人の視点からみるとどういう存在なのか、ということも視野に入れながらさらに深く考えてみてください。

首都大インダスは|少人数編成でいつも一緒にいる|ロケーション的に外界と隔絶されている、など「普遍性」を獲得するためには不利な状況にある、とも言えます/逆に「個性」を保ちつづけるためには有利なのかも知れません。普遍性を備えるためには「他者」「外界」を観察して個にフィードバックする、あるいはその逆、といった訓練が必要です。今回のワークショップはそのいい機会でした。

言い添えると、周囲と隔絶された状況のなかで「個性」を追求し続けた果てに得られる「普遍性」もあると思います。たとえば画家がそうでしょう。しかし画家にしても「外界」「世界」「宇宙」…それらが自分のなかのものだったとしても…を観察しつづけながら描き、新たな世界を「設計」しているはず。いま、皆が備えねばならないのは世界を「観察」し「設計」するスタンス、なのかも知れません。

さて、SF小説で参考として挙げたいのは、渡邉が「メタバースの建築」でコラボレーションした飛浩隆さんの「数値海岸」です。一度読んでみるとよいかも知れません。

http://mapping.jp/mt/mt-search.cgi?IncludeBlogs=3&search=%E9%A3%9B%E6%B5%A9%E9%9A%86

チーム未来のプレゼン手法はなかなか興味深かったです。自分たちの案を伝えるため、模型、CG、台本、さまざまなツールを援用したところを評価しています。いま疎になっているところをアドバイス内容や思索で埋め、次につなげていってください。今後に期待しています。

noriko さんのコメント...

お疲れ様でした。

みんな不完全燃焼感はあると思いますよ。
私も言いたいこととか言えなくて、
きっとこれを言ったらさらにきつい反論が来るんだろうなぁ、言っても無駄かなぁとか悶々としていました。
マイクを握らせてもらえる時間がなかったのも事実。
1班の質疑応答に2時間くらいかけてもいいような気分でした。

いろんな人と触れ合うことって、いろんな意味で、改めて大事だと思わせてくれるワークショップだったね。